2010年06月05日

川染喜弘

---インタビューって、どんなこと聞かれる?
川染「その前になんですけど、このインタビューでの全ての言葉、これは僕のリリック(詩)、作品でも有りますので、読んで頂く方には、それを前提に読んで頂きたいです。」(『川染喜弘2万字インタビュー 聴き手田口史人〈フリーペーパー2007年〉』より)

 川染喜弘の演奏の最大の特徴の一つとして「言葉」が挙げられる。川染喜弘の眼に留まり、彼自身によって紙に書き留められた言葉が、一気呵成に発声され、発声された言葉たちは無秩序に接着していく。それは、言語によるコラージュ空間の創出であると僕は考えている。川染喜弘は自分自身が発声する言葉の全てがリリック(詩)であると定義する。文脈を無視して発声される川染喜弘の言葉は、具体詩の一種であるように僕には思われる。これを(1)としよう。
 また、川染喜弘自身によって発見されることがなければ誰も発見しないような些細な言葉を、彼は芸術的な言葉として使用する。それは、例えば、彼の母親が放った発言であるとか、コンビニエンスストアに書かれていた落書き、ポストに投函されていたチラシに書かれている文章といった、本当に些細な言葉たちだ。落書きを例にとると「何よりも大切な水、でも命の方がもっと大事」という言葉が使用されたことがあったが、彼はそれが川染喜弘のリリック(詩)であると宣言し、何度も繰り返し発声していった。これを(2)としよう。

 コラージュとはどのような性格を持っているのか。中ザワヒデキの『西洋画人列伝(NTT出版 2001年)』の中から、ピカソとデュシャンの記述をそれぞれ見てみよう。(この本は芸術家の自伝という形式を取っているため、「私」と書いている場合は、ピカソやデュシャンの一人称である)

 対象を断片にまで破壊しつくした過程は「分析的キュビズム」と呼ばれ、その極限では観念も記号化されて印刷文字や数字の導入と相成った。そして1912年、最初のパピエ?コレとコラージュを行った。パピエ・コレ(紙による糊づけ)は木目模様の紙からギターの形を切り出すなど、画材の拡張であったが、私が発案したコラージュ(糊づけ)は新聞紙の切れ端でガラス瓶を表してもよく、いわば、異質な物質同士の出会いによる既成概念への揺さぶりだった。
 現実世界でグラスにビールを注ぐとき、グラスとビールは「コラージュ」している。これをキャンバス上で行えば、画面は「もう一つの現実」となるだろう。(『西洋画人列伝』ピカソの項より)
 レディメードとは、主観はおろか、偶然性すら加味されない完璧な引き算の達成だった。最も有名かつスキャンダラスなレディメードは、1917年の『泉』である。男子用小便器を横に寝かせ、アングルの名作と同じ題をつけたのだ。
 これはキュビストが行ったコラージュの、概念における帰結だった。「便器の形をした物体(オブジェ)」と「泉という芸術的な題名」を「糊づけ」したのである。便器がトイレに置かれたまま芸術になったわけではない。「便器から便器という意味を剥奪し、芸術という文脈のもとに提示することが、芸術となった」という、自己言及を含む論理命題である。自己言及は同語反復を招くから、結局ここから芸術の語の無意味が導かれてしまっている。(『西洋画人列伝』デュシャンの項より)

 川染喜弘の手法と結びつける時、ピカソの項目で書かれている文章は(1)に適しており、デュシャンによるレディメードについての文章は(2)に適している、と僕は考えている。
 川染喜弘の発声によってコラージュされる言葉はそれぞれ異質な文脈から引っ張りだされ、衝突している。彼の演奏は、コラージュによる既成概念の揺さぶりの連続が、あまりに高速で行われるために逆に解りにくさに繋がっているという部分も見受けられる。だが、彼によって作られたリリックを全て聞き取り、処理することができたなら、聞き手は無理矢理繋げられた言葉や概念の異様な形状を体験することになるだろう。
 川染喜弘によって芸術的言語として引きずり上げられる言葉は、デュシャンによって芸術の文脈に置かれた便器のように機能すると僕は考えている。詩ではないものを詩として提示した前例として、モンティパイソンのコントがある。コントでは「来週までに10ペンス貸してくれ」という言葉が、芸術史上、過去に例のない美しい言葉として扱われ、それが文芸批評家に絶賛され、演劇として上演される様などが展開される。モンティパイソンのコントはギャグとして優れていると同時に、ある批評性も兼ね備えている。コントと音楽という違いこそあるが、川染喜弘による言語の再発見はモンティパイソンのこのコントが持つ面白さに近い、とも僕は考えている。

 川染喜弘は「音で韻を踏む」という活動を一時期盛んに行っていたこともある。これは言葉で韻を踏むのではなく、同じ言葉でありながら性格の違うものの、それぞれの音を韻として捉え、繋いでいくという演奏だ。例えば、川染喜弘の過去の演奏の中で、トータス(亀)松本という歌手の声と、ゲームの中で亀のキャラクターが踏まれる時の音が繋がれたことがある。その二つの音は、全く異質な音を持っているが、彼によってそれぞれの音の解説がなされるとき、二つの音が同じ言語(この場合、亀)によって記されている存在が発している音であることがわかる、というものだ。
 川染喜弘は、テレビゲームを投影しながら、表示されるメッセージ画面をひたすら高速で朗読するというスタイルを取ることもある。テレビゲームというものが持つ一種のノスタルジーはそれほど重要ではない。僕はこの行為を、ゲーム画面を楽譜と見立てた演奏行為であると考えている。(テレビゲームの画面は、楽譜の役割を果たすと同時に、ゲーム用に組み立てられた自動演奏が流れてくる音のオブジェでもある。)同様に、彼は漫画やチラシの文面など、ありとあらゆる言葉をもとにヴォイスパフォーマンスを行う。もちろん、思いつくまま自動初期的に言葉をつなげていくラップも展開する。

 僕は、演奏行為というものを記号を身体性でもって解放していく行為だと考えている。西欧音楽では五線譜に書かれた音符こそが楽譜に書かれた記号であり、演奏者はピアノなどの楽器を演奏して、記号を解放し音楽という運動体を現前させてゆく。
 川染喜弘の楽譜を少しだけ拝見させてもらったことがあるが、そこには大量の言葉が書き込まれていた。その隙間を縫うようにして、さらに言葉による注釈が書き込まれていた。川染喜弘にとって、音符の役割を果たしているものは言葉である。
 言語学者ソシュールの定義に従えば、言語とは記号であり、記号のシステムである。川染喜弘の楽譜とは、言語という記号が羅列された指示書である。彼の演奏には発声という身体性が常に発生している。そこには言語を「書かれているもの」から「発話されるもの」として解放していく川染喜弘の営みがあると僕は考えている。
 発声されることによってコラージュされる言葉。発声されることによって意味を剥奪される言葉。発声されることにより音を持つ言葉。川染喜弘の言葉による演奏にはつねに言葉との衝突がつきまとっているのではないだろうか。それは言葉同士の衝突でもあり、言葉と身体との衝突でもあり、記号としての言葉と発話される言葉との衝突でもある。



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タグ:川染喜弘
posted by Neue yapon kunst at 04:03 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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